ペリー提督の横浜上陸
The Landing of COMMODORE PERRY at
Yokohama
西暦1854年3月8日(嘉永7年、陰暦の2月10日)、ペリーは日本への2度目の来航時に横浜に上陸。幕府が急ぎ建設した応接所において日米和親条約交渉が行なわれました。その上陸風景をペリー艦隊のドイツ人画家ハイネが描いたのが、『横浜今昔散歩』p.18に掲載している『ペリー横浜上陸図』です(横浜開港資料館所蔵)。この応接所は後にすぐ撤去されたため、どの場所に設置されたのか定かではありません。しかし、ハイネの石版画に描かれた一本のタブノキ、通称「玉楠(タマクス)の木」がその地点を割り出すためのヒントになっています。このタマクスの木は火災や震災、空襲に見舞われて幾度も枝を焼かれてしまいましたが、根から新たな芽が出て成長し今も横浜開港資料館の庭に枝を広げています。では、この上陸地点は、具体的に現在のどの場所に相当するのでしょうか?
『横浜今昔散歩』のp.219-220で述べた解説をさらにここで補足するための図版や解説を今後、随時追加してゆきます。
1.「ペリー日本遠征記」の口絵として掲載されているハイネによる玉楠の木。
ペリーは、1854年(嘉永7)に日米和親条約締結を果たし、帰国した後に報告書を作成し、1856年に合衆国上院議院に提出しました。実際に文章を編纂したのは、ニューヨークのカルベリー教会の牧師にして歴史かのフランシス・ホークス
Francis Hawksで、彼の手によって完成したのが、 “Narrative of the Expedition
of an American Squadron to the China Seas and Japan
Performed in the Years 1852, 1853 and 1854 under the
Command of Commodore M.C. Perry, United States
Navy”(1856)、いわゆる『ペリー日本遠征記』です。以前よりこのペリー日本遠征記に掲載された石版画のオリジナルを集めて来ましたが、最近、幕末に印刷されたそのオリジナルの本(3巻あるうちの1巻目だけ)も入手することができました。
タマクスの木のかたわらには、水神の祠と鳥居があります。これが、ハイネの描いた石版画にも見られます。さて、この水神の祠、一体どちらの方角を向いているのでしょうか? 鳥居の左側にかなり高い山が描かれています。以下の地図から見ると、富士山は横浜の西にあります。この山が富士山であるとすれば、この風景は西を見ていることになります。
横浜港の付近では、海が北東、陸が南西を向いていますので、祠は海側の東よりに向いていることになります。ところが、『横浜今昔散歩』p.18に掲載している『ペリー横浜上陸図』を再度ご覧下さい。どうでしょうか?
>2.
『ペリー横浜上陸図』の玉楠の木
ここで掲載している石版画は、著者のコレクションの中からスキャンしたものです。無断転載は禁じます。教育目的等の使用希望の際は右アドレスまでご連絡下さい。hrsh2@hrsh2.com