今から10年前、幕末から明治時代にかけての日本の風景を記録しつづけた写真家フェリックス・ベアトの写真集を眺めていて、三田の大名屋敷とその間に挟まれた綱坂を写した古写真に目を奪われた。調べたところ、長屋塀などは現在は存在していないとはいえ、坂そのものは江戸時代の形をそのままとどめていることを知り、驚きを禁じえなかった。
当時は本のカバーデザインを生業としていた頃だったのだが、ある時、東京グラフィックサービス工業会(印刷会社やグラフィックサービス関連業者の事業者団体)の機関誌「東京グラフィックス」の表紙デザインの話が私のもとに来た。東京を題材にということなので、すぐに、あの綱坂の古写真が思い浮かび浮かんだ。100年前と現在の写真を同一視点から撮影し、風景の移り変わった部分・今も変わらぬ部分を一つの紙面にまとめることにより、東京という都市の急激な成長と変遷、とくに西洋文化を積極的に取り上げていった明治人の進取の気性を際立たせ、その反面、地域によっては今もなお江戸の頃の名残りを感じさせる風景を味わえることを望んだ。ひいては、こうした時代の記憶を人々の思いにとどめることを可能にする、文化的・歴史的記録伝達の担い手としての「印刷」の役割を「東京グラフィックス」誌の表紙の中で表現できないか模索してみた。私が担当した最初の号は、もちろん、三田・綱坂だった。以下にその表紙と解説のダイジェストを紹介する。
明治初期の大名屋敷・今のイタリア大使館
[解説ダイジェスト] 右側手前の長屋塀は、肥前島原藩の松平主殿頭の中屋敷であった。明治維新後、人の住まなくなった荒れたこの屋敷に目を留めたのが福澤諭吉である。彼は明治 4年に政府からこの屋敷を借り受け、慶応義塾大学を新銭座からこの地に移した。当初は島原藩の屋敷をそのまま利用していた。今にこの綱坂周辺は慶応義塾大学や高等部、中等部によつて占められている。
右手上方の木柵側は伊予松山藩の松平隠岐守の中屋敷。屋敷の庭は、赤穂四十七士のうち大石主税や堀部安兵衛ら10名が切腹した地でもある。討ち入りを果たした後、主君の菩提寺である泉岳寺に赴いた赤穂浪士たちを、幕府はその沙汰が決定するまで泉岳寺周辺の数カ所の大名屋敷に預けさせた。その預けおいた屋敷が、それぞれの浪士たちの切腹の地となったのである。明治時代は、日本財政のパイオニア、松方正義公爵(第4・6代総理大臣)の邸となる。後に、松方巌創設の十五銀行に譲渡され、今はイタリア大使館となっている。撮影している間も、イタリア人や、イタリア車がこの道を通過していった。
左側は陸奥会津藩の松平肥後守の下屋敷。その上方は、薩摩藩の支藩である、日向佐土原藩の島津淡路守の上屋敷。大正2年、三井家が賓客の接待所として三井別邸をこの地に建てた。現在「綱町三井倶楽部」として用いられている。
このように、何気ない風景の中にも歴史的にも興味の尽きないエピソードが隠されているのがこの東京である。それを掘り出していき、東京を「再発見」するひとつの契機となってくれれば幸いである。このシリーズでは、毎回、現代の地図と同一縮尺の江戸ないしは明治時代の地図を掲載している。どの土地であっても、建物は大きな変遷を遂げているが、道路の形は100年を経てもほぼ昔のままであるのが興味深い。
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近代都市を目指した洋風街区
[解説ダイジェスト] 先月号のあの写真からおよそ20年ほどしか経過していないにも関わらず、この銀座はまったくの変貌を遂げていた。江戸の町は、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるほど、度重なる火災に見舞われてきた。明暦3年(1657年)の振袖火事、天和2年(1682年)のお七火、元禄11年(1698年)の勅額火事、元禄16年(1703年)の水戸様火事など江戸の町を大半を焼き尽した火事だけでも10回ほど生じている。明治政府は、銀座一帯を焼き尽した明治5年の火災の後、東京の不燃建築化の先駆けとして銀座を煉瓦建築に改変する布告を発令した。建築設計・都市計画を委嘱されたイギリス人建築家ウォートルス(T.J. Waters)は、当時ロンドンで流行していたジョージア様式を採用し、時代を先取りした洋風街区を明治10年に完成させた。とはいえ、火災に強い煉瓦街も、後に関東大震災で倒壊した。
完成当時、道路幅は二倍以上の十五間に広げられ、日本最初の街路樹(桜・松・楓)が歩道の境に植えられた。桜や松は枯れたが、明治中頃に代わりに植えられた柳は根付く。後に、「♪昔恋しい銀座の柳」と西条八十作詞の「東京行進曲(昭和4年)」で往時を謡われるほど、銀座の名物となる。柳は何度も復活の試みがなされ、今では銀座一丁目と二丁目の間を通る「銀座柳通り」にその姿を見ることができる。
この古写真は、明治20年代に日下部金兵衛によって撮影されたと考えられる。彼は最初写真家ベアトの助手として写真の彩色に従事していたが、後に自ら写真館を開業。明治期の草分け的写真家として数多くの貴重な写真を残す。
現代の地図と明治時代の地図を比較すると、煉瓦通り開設時から今も続く老舗が見られる。同じ視点からの現在の写真を取るのは、道路の真ん中から撮影するわけにもゆかず、横断歩道から撮影しようと試みるが人通りが多く困難。歩行者天国の日に再度来てみるが雨天で結局歩行者天国が実施されないというハプニング。晴天の銀座を撮影したかったのだが、雨続きで原稿締めきりに間に合わず。どの取材でも思いがけないことがいつも起こる。それもまた楽しみでもある。
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この表紙デザインの仕事は最初は一年間ということで始まったが、好評だったのか二年間続いた。表紙に使用した画像は、博物館等から貴重な古写真のデータをお借りすることも多かったが、後半になるにつれて、自ら明治・大正時代の古い絵はがきを集めて掲載していった。私の絵はがき収集の目的は、もっぱら表紙デザインのためであり、しかも、なるべく構図として魅力的なものであり、なおかつ現代と比較して興味深いものという基準でピンポイントに集めていた。
この扉記事の連載をまとめるだけで一冊の本ができるだろうとは思っていたが、当初、それほど本にしたかった訳ではなかった。しかし、最近になり血糖値上昇が露呈。自宅で座ったままの仕事による運動不足も元凶の一つと思われ、「それなら運動しなければならない仕事を作ろう!」と思い立ったのが、文庫版『東京今昔散歩』である。亀戸からときには片道一時間かけて港区・中央区・文京区等々を自転車で駆け巡って写真を撮影したおかけで、血糖値は下がり、運動不足も(一時的に)解消した。それと同時に、表紙に使用した画像だけでは一冊の本には足りないので、明治・大正の、さらには昭和初期の絵はがきを収集し続けた。気づいてみると絵はがきの数は数百枚になったが、絵はがきのコレクターとしては少ない部類であろう。とはいえ、写された風景に何らかの興味深い点のある魅力を感じる絵はがきのみを集めた、いわば厳選されたコレクションである。はじめは神田の古書店街を探したのだが、案外、手彩色絵はがきや手彩色古写真は出回っていない。入手源としてネットの古籍を扱う書店(北は北海道から南は九州まで)や、オークションが役立った。取引相手は日本各地のコレクターや古書店、また海外から買い付けて来た人や海外から出品していた人も少なく無い。東京や横浜から、明治・大正時代の日本各地、のみならず全世界に散って行った絵はがきが、かくして東京に里帰り(?)したことになる。大正末の関東大震災の時には東京や横浜に存在していたなら焼失していたであろう絵はがきたちが、一時疎開していたことによって生き延びることができたのである。東京今昔の出版企画がGOになってから、仲間のデザイナーたちにイラストや地図作成で協力を得つつも、『東京今昔散歩』のカバーデザインから紙面構成・写真撮影・解説の執筆と丸ごと本一冊をほぼ半年で仕上げたため、『東京今昔散歩』は私としては荒削りな部分、作り込みの足りない部分も多いと感じるのだが、客観的に言えば、いつもが凝りすぎているので、まあ良い加減だったのかもしれない。どうも原稿の締め切りが「凝りすぎ」の歯止めになっている。『東京今昔散歩』はどちらかというと北から南に、東から西にページを進め、しかも亀戸やら向島など自宅に近いところに比重を置いてしまったため、出来上がってみると、なんと! 肝心の三田・綱坂を入れるのを忘れていた…。